真夜中の逢瀬
暗夜王であるマークスは、普段から仕事ばかりの人間である。休むときはしっかり休むものの、周りからすると全然休んだようには見えず、彼はせっかくの休日ですら仕事に精を出していた。
そんな彼を見かねて、なんとか休ませるように提案したのは、彼の部下である。休んで欲しいと懸命に願っても、マークスはそれを断ろうとしたのだったが、それを打ち砕いたのは、つい先日彼の伴侶となったばかりの女の一言であった。
たまには、一緒に出掛けて、街を歩きたい。
普段からわがままは言わず、健気についてくる妻のそんな一言に、マークスはあっさりと休みを取ることを決めた。
むしろ、わがままをたくさん言って困らせてもいいところだと思っていたマークスにとっては、嬉しいことであった。
部下が陰ながらマークスのために奮闘して、彼の為に二日ばかりの休みを取ったのは少し前のことだった。
そして待ち望んでいたその休日、マークスは休日だというのに、いつもより早く目を覚ましてしまい、ベッドの中で考え事をしていた。
どちらかというと、早く起きることの方が多い彼だったが、今日の彼はというと、それよりも少し早く目を覚ましていた。そんな彼の腕の中には、すやすやと穏やかな寝息を立てている女がいる。
言わずもがな、この女はマークスの伴侶であるカムイである。昔から、朝寝坊は当然のことで、大人になってもそれが変わらない彼女は、いまだにすうすうと心地よさそうな顔をして眠っている。愛おしいその寝顔に、マークスの瞳は細められる。
愛らしい魅力を放つカムイは、マークスの心を掴んで離さない。
まだもう少し、カムイの寝顔を見ていたいとマークスは思い、唇を寄せて彼女の額に口付けた。これ以上触れたりしたら、カムイが起きてしまうため、少し残念ではあったが、なんとか触れることを堪え、マークスは瞳を閉じる。
まだ、起きるには早い時間なのだ。カムイがいったいいつ目を覚ますのか、じっと見ていることも楽しい、と彼は思いながら瞳を細めて彼女の寝顔を見つめる。
「んん……」
少し近づきすぎてしまったのか、カムイがわずかに身じろぎして、声を漏らした。それにマークスは、カムイを起こさないように気をつけて離れようとするのだが、彼はとあることに気が付いて口元を愛おしげに緩めた。
カムイの小さな手のひらが、マークスのシャツの袖を掴み、離そうとしない姿を見て、思わず笑いそうになってしまう。見る限り、カムイは起きているのではないだろうかと思って、マークスは彼女の頬に唇を寄せてみる。すると、カムイの頬がわずかに緩んだ気がした。
それを見逃さなかったマークスは、彼女のまぶたに口付ける。
「……カムイ、起こしてしまったか?」
「………だ、大丈夫です…」
「こんなに早く起こすつもりはなかったんだが…結果的に起こしてしまった。すまない」
「い、いいえ……」
カムイはマークスの腕の中でもぞもぞと寝返りを打つと、そのまま彼の厚い胸板にすり寄った。そんな愛らしい様子のカムイに、マークスは穏やかな表情を浮かべる。
「…早く起きた分だけ、マークスさんと一緒に過ごせますから…うれしいです」
「………」
なんだこの可愛い女は。
マークスは内心そう思って、それを表情に出さぬまいとしたからなのか、彼の眉間にはしわが寄り始める。そんなマークスの表情に、カムイは心配そうに見つめる。まるで、悪いことをしてしまい、怒られるのかと心配そうに見上げてくる子どものような彼女の顔に、マークスは慌ててカムイを抱き寄せる。
「す、すまない。考え事をしていたんだ…」
「…お仕事のことですか?」
「いや、仕事は片付けてきたから、厄介なことでも起きない限り大丈夫だとは思うのだが」
「そうですか…なんともないといいですね」
「ああ、そうだな。せっかく、おまえとゆっくり時間を過ごせるのだ。この機会を見逃さぬはずはないな」
もう一度、マークスはカムイのまぶたに口付けて、優しくその身体を抱き締める。
休日は始まったばかりだ。そんなことをマークスは思っていたのだったが、それはすぐに打ち破られてしまうのだった。
ところ変わって、ここはマークスの執務室である。そこには、いつも以上に眉間にしわを寄せて、書類と向き合う彼の姿があった。
確かに、マークスは休みをもらった筈であった。
この休みを利用して、カムイと少しだけ遠出をしようかなどと考えていたというのに、急に舞い込んだ仕事に、マークスは仕事をせざるを得なくなってしまった。
今度こそ本当に怒られるどころじゃ済まされないのではないかと、泣きそうな顔でやってきた部下のことは、目を瞑るとしよう。彼には罪はなく、たまたま急ぎの仕事が舞い込んでしまったことが原因なのだ。
しかし、マークスと出掛けられるものだと思って、うきうきと明るく過ごしていたカムイが、寂しさを隠しきれずにいたことだけは、彼の脳裏にこびりついて離れない。
この仕事さえなければ、今頃、カムイの愛らしい笑顔を見ていた筈であった。それなのに、むしろカムイから笑顔を奪ってしまったではないかと、マークスはため息をつきそうになる。
しかし、まずは目の前に積み上げられたこれを片付けなければならない。
しぶしぶといった様子でマークスは書類に手を伸ばす。
「…あのぅ、マークス様……」
「…………なんだ」
「ひっ、す、すみません……せっかくのお休みでしたのに……」
「……おまえのせいではないだろう」
「は、はい…」
きっと怒られると思って、マークスを訪ねてきた部下のラズワルドは、地を這うような主の低い声に驚き、冷や汗をかいた。マークスは、仕事の責任を押し付けるなどといったこともないし、これは急な仕事だったし、仕方のないことなのだ。そう思って、マークスは目の前にある仕事を黙々と片付け始める。
日が暮れる頃には帰れるだろうか。そんなことを思いながら、マークスはもくもくと仕事を片付け始める。
そして、マークスが執務室に缶詰になっていたころ、カムイはというと、自室にて退屈そうに読書をしてすごしていた。マークスが仕事に向かってしまったことは仕方のないことなので、カムイは大人しく一人の時間を過ごしていた。ずっと読みたいと思っていた本があり、それを読める時間を楽しみにしていたものであったが、本を読み進めても、なんだか味気なく感じてしまって、そんな自分にカムイは小さなため息をつく。
もしも、マークスに仕事が舞い込まなければ、今頃一緒に出掛けていたことだろう。カムイもまた、マークスと同じことを考えながらも、どこか退屈そうにため息をついた。
しかし、マークスは今頃職務に当たっているのだから、こんな態度でいるのはいけないと、カムイは息を吸い込み、そのままゆっくりと吐き出した。
ずいぶんと時間が掛かってしまった。執務室の窓から外の様子を伺えば、ただでさえ暗い暗夜王国の空はいつもより暗く、すっかり夜になってしまっていたことを知った。
もう、こんな時刻になってしまったのだから、カムイは今頃寝てしまっているだろう。マークスは、カムイが待つ自室に帰るべく急いでいた。
足早に向かった先には、すでに眠る時間だろうと言うのに、カムイはまだ起きていて、それにマークスは驚く。
「カムイ…起きていたのか?」
「おかえりなさい、マークスさん…だって、疲れて帰ってくるマークスさんより早く休むわけには…」
「そんなこと、気にしなくてもいいんだぞ。眠くなったら休めばいい……だが、起きていてくれてありがとう。おかげで、おまえの顔を見れてほっとしたよ」
抱き付いてくるカムイの背中に腕を回し、鼻腔に香ってくる愛しい女の香りを楽しむ。
首筋に顔を埋めて、それをひとしきり堪能すると、マークスはカムイの表情を伺う。
「……一日、退屈にさせてしまっただろう。すまない……」
「……いえ…いいんですよ。平気ですから……」
「…………」
カムイの表情を伺いながら、マークスは言うと、彼女の瞳がこちらに向いていないことに気が付く。
いつも、人の目を見て話すカムイがこちらを見ていないということは、少なからずさびしい思いをさせてしまったのだろう。そう思ったマークスは、カムイを抱き締めたまま、その背中を撫でる。
「…マークスさん?」
「……カムイ、出掛けよう」
「えっ…!い、今からですか…!」
「ああ、今からだ。どこも店はやっていないと思うが……外を歩くくらいなら、構わぬだろう」
「で、ですが、もう外は暗いですし…」
「うん……?心配しているのか。大丈夫だ。私が傍についているし……ジークフリートはさすがに持ち歩けないが、ナイフくらいなら携帯できるしな」
「マ、マークスさん…」
そう話すマークスは、腰にナイフを携帯して、カムイを誘い出す。確かに夜も暗いのだが、マークスと一緒ならばと、カムイはにこりと微笑む。こんな夜に出歩いたことはなく、どこか緊張感もあったが、マークスと一緒ならばと思ってしまった。
こっそりと抜け出したマークスとカムイの二人は、城下に広がる街並みを駆けていた。真夜中の城下町は静寂に包まれており、人がいる気配はまるでない。しかし、どこかこの状況にどきどきしてしまうのは、人がいないせいだろうか。
無論、二人きりなので供を付けているわけでもないのだが、二人はこれまで激しい戦乱の中を駆け抜けてきたということもあり、並大抵の者には負けない自信はあった。
カムイの手を取りながら、街並みを見ていたマークスは、夜という事もあってか、早々に眠りにつく街の姿に、思わずため息をつきそうになる。
それもそうだ。こんな夜に営業している店など無いに等しいと言っていいだろう。マークスの歩みが遅くなったことにカムイも気が付いて、マークスに合わせて彼女もまたゆっくりと足を運び始める。
「マークスさん…?」
おそるおそる声を掛けてみれば、マークスはとても申し訳なさそうな顔をして、こちらに振り返った。
仕事でカムイを一人にさせて寂しい思いをさせた挙句に、こうしてカムイを楽しませてやることも出来ない。マークスのそんな表情に、カムイは気にしないでと言わんばかりに微笑むと、彼の腕に抱き付く。
「すまない……カムイ。おまえを退屈にさせた挙句…」
「いいんですよ。いつも、お仕事を頑張るあなたが大好きなんです。あなたの大きな背中が、私や、きょうだいたちを守ってくれていることは知っていますよ…」
「だが…王としての私はどうであれ、夫としては…」
「ふふ…やっぱり、マークスさんは優しいですね…あなたがそういう人だから、私はあなたについてきたんですよ…」
「カムイ…」
腕に抱き付いてきたカムイを抱き締めて、マークスはそのやわらかい髪に整った鼻筋を埋める。そこで息を吸えば、カムイの甘い香りが鼻をくすぐった。
そのままマークスはカムイに抱き付いていようと思ったのだが、不意に目の前に映ったものに、彼は瞳を丸くさせる。
「カムイ…」
「マークスさん?」
「そこに劇場があるようなのだ…入ってみないか?」
「え?」
マークスの視界の先に映ったものは、少し小さな劇場があった。営業をしているかは分からないし、そこが閉まっているとも限らないのだが、マークスと出掛けることを心待ちにさせていたカムイの笑顔を奪ってしまっていたと心苦しく思っていたマークスにとっては、カムイが喜んでくれるのならば、と劇場に足を進める。
どうやら、中からかすかに明かりが漏れていて、営業をしているだろうことは知れた。
マークスがカムイの手を握ったまま、劇場内に入ると、どうやらそろそろ劇を開始するようで、それにマークスはいくらかの金子を渡すと、カムイとともに中に入った。
「ふふ、楽しみですね。マークスさん」
「ああ…そうだな。しかし、このような時間まで営業している劇場もあるのだな…」
「そうですね…明るい時間にしか行ったことがありませんから、知りませんでしたね」
にこにこと嬉しそうなカムイに、マークスもまた微笑みつつも、まばらに人のいる劇場内の席に座る。
ほのかに暗くなり始める室内で、舞台上を見つめていると、ゆったりとした音楽が流れ始めた。
その音楽にカムイは耳を傾け始めて、そちらに意識を集中させる。途中、暗闇の中、マークスの大きな手のひらがこちらに伸びてきて、カムイの手のひらを包み込んだ。穏やかに聞こえてくる音楽と、そのぬくもりにカムイの頬は緩み始める。
暗闇の中でカムイの手を取り、劇を鑑賞していたマークスであったが、本当は休みになるはずだった一日を職務にあてて、カムイに触れられるはずの時間を取られてしまったからなのか、少しでも彼女のぬくもりの触れていたいと思う気持ちが溢れてきた。
カムイの手のひらをこちらに引き寄せて、組んだ脚の上につないだ手のひらを乗せると、それにカムイは不思議そうに顔をこちらに向けてくる。
劇もまだまだ佳境には入っておらず、これからが見どころであるのだが、それよりもマークスはカムイに触れたくて仕方ない。
「…マークスさん?」
周りの観客に聞こえないように、マークスだけに届く声量で囁くと、マークスはそれにカムイの方を振り向いた。
暗闇で見つめるカムイの瞳は、暗がりでもよく分かる赤く輝く瞳をしていた。その瞳はとても美しく、マークスを魅了してやまない。
愛おしいその瞳に、マークスは瞳にやさしさをたたえたまま細めると、カムイの顎を親指と人差し指で掴み、こちらに引き寄せると、ずっと触れたくてたまらなかったその女の唇に触れる。
「……んっ……」
暗闇の中、口付けを交わすと、マークスはカムイの華奢な身体を引き寄せる。触れた唇はとても甘く、叶うならこのままずっと触れていたいと思ってしまう。
劇を見に入ったはずなのに、そちらに集中することなど出来ず、劇場内の片隅で二人だけの甘いひとときを過ごす。
二人の耳に、穏やかで優しい音楽が聴こえてくる。心地よいその音楽に耳を傾けながら、マークスは再びカムイの唇に触れた。
Twitterの診断メーカーより、『深夜、会場でキスする激甘なマクカム』でした。
終戦後に夫婦になったイメージで書いております。