やさしい時間


 カムイは足早に階段を駆け上っていた。いつもはこんなに校内を急いだりしないというのに、急いでいる理由はたった一つだけだ。
 この密やかな時間は、カムイだけの大切な宝物だ。あたたかくて、やさしい気持ちになれる。それだけじゃなくて、胸の奥をどきどきと心地よい感情が駆け抜ける。
 この気持ちを知るのは、たった一人だけなのだ。あの人の隣にいられるということが、こんなに嬉しいものだとは思わなかった。

 あと少し、あと少し。そう思って、カムイは屋上へと続く階段を一息に駆け上っていく。念のため、あたりをきょろきょろと確認したあと、扉をそっと開けると、彼女はぱたぱたとローファーを鳴らしながら走っていく。
 しかし、校内をずっと走っていたからだろうか、カムイの息は上がっていて、それを整えるためにも、彼女はゆっくりと歩みながら、呼吸を繰り返す。
 会いたいから、息を切らすまで急いで来ただなんて知られたら、きっとからかわれてしまう。カムイより上手で、敵うはずのない相手なのだから。

 少し、むずがゆいような、あたたかいような気持ちになったところで、カムイは屋上の給水タンクのそばに人影を見つけて、その愛らしい顔をとても嬉しそうに綻ばせる。
 そっとそっと、足音を立てぬように近づけば、彼女はとあることに気がついて瞳を丸くさせる。

「……マークス先生?」

 本を読んでいたのか、投げ出した脚の上は難しそうな文字が羅列している本が開いたまま乗せられていて、その本の持ち主は、瞳を閉じて眠っているはずだというのに、いつもの通りに眉間にはしわが寄っている。
 さらりと流れるブロンドの髪は、穏やかに吹き付ける風に揺れている。
 カムイはそれに、いつもより違う姿を見たような気がして、嬉しくなってそろりそろりと彼を起こさないように近付いていく。いつも自分にも他人にも厳しい彼が、こうやって眠っている姿を見せているだなんて、カムイは見たことがなく、むしろ初めてのことかもしれない。

 寝ているのだったら、いつもはあまり近付けないこの距離も、少しくらいは縮められるだろうかと、カムイは小さく息を吐く。
 彼のそばに膝を付けて、カムイは座り込むと、眠る彼の姿をすぐ近くから見つめる。その髪と同じように美しい色をしている睫毛は、男性だというのに長く、自分のそれより長い気がして羨ましくなり、カムイは比べるように自分の睫毛を右の親指の腹で撫で付ける。そして、そんなことをしている場合ではないと気がついたカムイが慌てて彼を再度見つめると、いまだに眠っているようで、疲れているのだろうかと思わせる。

 麗しく、厳しい彼のその姿は、もちろん女生徒からは絶大な人気を誇るのだが、厳しくとも、優しくもある彼は、この学園に通う男子生徒からも慕われていることは、カムイはよく知っていた。

 真面目で誠実な彼の違う一面を知っているのは、ここにいるカムイだけだ。
 情に厚くて、優しいだけではなく、少し意地悪で、滅多にないことだったが、ときどき子どものように拗ねるときだってある。そんな、彼の姿を見ているのは、カムイたった一人だけ。そう思うと、カムイはどうしようもなく嬉しくなって、足の先から、頭のてっぺんまでもが彼への恋情に包まれる気がする。

 これからも、彼の違う一面を見つめていくのは、たった一人だけでいい。他の誰にも、渡すことなんて出来ない。
 そう思いながら、カムイは眠る彼の顔に自らのそれを近付けていく。
 いつもはこのようなことはしないのだが、眠っている今ならば、いいだろう。カムイは一人で納得しながら、息を止めて、淡く桃色に色づき、しっとりとした唇を近づけていく。

 もう少し、距離にして二センチメートルほどと、わずかばかりだった。
 カムイは不意の口づけをしようとしていたのだったが、気が付けば、彼女の手首は男の大きな手のひらに捕まえられていて、触れようとした唇はというと、まだ触れていなかったはずなのに、距離がなくなり、いつの間にか唇が触れ合っている。
 ど、どういうことなのだ。カムイはそう思って、ばたばたと慌て出す。しかし、慌てる前に、触れている唇が心地よかったのと、口づけの途中で耳を撫でられて、カムイはたちまちにおとなしくなる。

「……ぷはっ…い、いきなりなんて、ずるいです!」
「…ずるいとは…どちらがずるいのだろうか?眠っている男の寝込みを襲うなどと……」
「お、襲ってなんて、ないです!もう!」
「………くくっ……表情がころころと変わり…愛らしいものだな」
「………もう…」

 やはり、眠っていると思えば、実際は眠ってなどいなかったのだ。それでなかったら、口づけをしようとして顔を近づけたカムイの動きを捉えて、先に唇を合わせるだなんて、そんなことはしない。
 眠っている姿を見るのは初めてで、嬉しくて、それでつい心が騒いでしまったというのに、やはり何枚も上手で、一生勝つことなんて出来ないのではと思う彼に、カムイは唇を尖らせて拗ねる。

 こうやって、拗ねる姿すら、ただでさえ離れている彼との年の差を空けてしまうことは、分かっている。

「…どうした、気分を悪くさせたか?すまない、そんなつもりはなかったんだ…」
「………」
「カムイ、こちらを向いてくれ。頼むから……」

 子どものように拗ねて、いや、年上である彼には、じゅうぶん子どもに見えているだろう。なんてことのないひと時の間にすぐに拗ねるだなんて、カムイも大人げないと思う。これじゃあ、彼との距離は、絶対に縮まらない。
 カムイが振り向いてくれないことを心配したマークスが近づいて来たことを感じ取ったカムイは、勢いよく振り向いて、彼のシャツを掴んで、身体を近づけると、触れるだけの口づけをした。

 すぐに唇は離れたので、ほんとうにささやかな口づけだ。けれど、カムイからもたされた口づけに、マークスは驚いたのか、瞳を丸くさせて、こちらを見ている。

 カムイとしては、マークスの驚いた表情を見られるだけで、とても幸せな気持ちになる。どうしても縮められない彼との年の差は、これから、少しずつ改善していきたい。せめて、些細なことでは拗ねないように。
 そんなことを思いながら、カムイはいまだに驚いている様子の彼の腕に自らのそれを絡ませる。
 すぐに、我に返ったマークスが、カムイの華奢な肩を抱き寄せてくる。穏やかな風が吹き付けるそこは、やさしい時間に包まれていた。



Happy Birthday ありがねさん!(^∇^)

2015/10/7 みゆ

フォロワー様のお誕生日に差し上げたものでした。

# back to top