トワイライト
その日は朝から雨が降っていて、視界は悪く、馬を走らせるにはあまり適さない天候であった。
行軍の途中、夜明けを待って進軍しようと決めていたカムイ率いる一軍は、林の中で馬や竜を待機させ、皆は野営の準備に当たっていた。
まだ若く、経験も浅いが一小隊を率いるほどになってきたジークベルトもまた、天幕を張って準備をしていた。
「ジークベルト、あとは私たちがやっておきますから、もう遅いし休んでください。」
「…母上。いえ、天幕を張るのは男の仕事ですから、お気遣いなく。」
天幕を張っていたところ、ジークベルトは誰かに話しかけられて、そちらを向いた。そこには、彼の実母であるカムイがいた。
ジークベルトと同じ白銀の美しい髪を風になびかせながらやってきたカムイは、とてもではないがジークベルトを産み、育てたと思うような年頃ではなかった。
ジークベルトの父親であり、暗夜王国の王子でもあるマークスと、カムイが結ばれたのは、もうずいぶんと前のことである。その二人が愛を実らせて、ジークベルトを授かることになるのだが、どこから気配を察知したのか、カムイたちが集まる城は幻影兵によりたびたび襲撃を受けた。
戦で城を離れることも多い中、幼いジークベルトを危険なところに残してはおけないと、彼の身を秘境にて預からせてもらうこととなった。
秘境とこの場所では時間の流れが違っているらしく、会う度に成長し、背もいつの間にかカムイを越してしまっていたことには、カムイとマークスの二人は言いようのない寂しさを覚えてしまったこともあったが、秘境から外の世界へと出てきたジークベルトにとっては、秘境の中では感じることのなかった父母の愛情をひしひしと感じていた。
離れて暮らしていた父母とこうして過ごす時間もあれば、会話をすることだってある。
ジークベルトにとっては父親であるマークスの大きな背中を追いかけていけるということがとても嬉しい。今はその背に追いつけているとは思えないが、厳しくも優しい父はジークベルトの目標である。
「……母上は、戦いに出て長いのですよね。」
「…ジークベルト?」
天幕を張り終えたジークベルトはそばにいたカムイに声をかけた。
ジークベルトの問いかけにカムイは首を傾げて彼を見上げる。
「どうかしましたか、ジークベルト?」
「……すみません。変な質問をしてしまって…。」
秘境の中でも姿なき兵と戦ったことは何度もあったが、今のジークベルトは白夜王国兵という、れっきとした人間と戦っている。幻影兵ならば、躊躇いもなく剣をとり戦うこともできるが、相手も血を通わせた人間かと思うと、ジークベルトはその優しき瞳を翳らせる。
うつむいたジークベルトに、カムイは彼のそばまで寄ると、その頬を両手で包んだ。
「…怖いですか、ジークベルト。」
「怖いわけではありません。父上と母上と共に行くと決めた頃から、覚悟は出来ておりましたから。」
「…ジーク。」
まだ幼い面持ちも残っているジークベルトは、カムイとマークスにとってはまだまだ可愛らしい子どもで守るべき存在である。しかし、ジークベルトはもともと正義感が強く、責任感も人一倍強い。
少し前まで、カムイがその手のひらを優しく包み込んであげられるほど、小さな手のひらであったのに、今の彼の手のひらはとても大きくて、カムイのそれを越してしまっていた。
小さな手足を懸命に動かして、よちよちと這っていたその記憶もまた、カムイの中では真新しいものだ。
ジークベルトが立派に成長していて嬉しいと思う反面、やはり寂しい気持ちもある。
「私たちが戦いに出ないと、守れないものがありますから、私はそのために剣を取りますよ。そうして、これまでもあなたのお父様と歩んできました。」
「……母上。」
ジークベルトだけでなく、カムイとてその手のひらが血に濡れることは、厭うべきものである。なるべく、血を流さずに戦争を終わらせたいと理想を語りつつも、実際はそのように事は進まない。
結局は、自らの手のひらを血で濡らすしか方法はない。自分の手が汚れることを忌避していては、自らやその周囲が危険にさらされるのだ。
カムイの言葉に、ジークベルトは納得したように笑うと、いまだに頬に触れたままの母の手のひらから離れようとする。
「……すみません、母上。離していただけると…。」
「え!私としてはもう少しこうしていてもいいんですけど…だめですか?」
「母上の頼みなら断れないのですが、父上に見られたら……。」
「ふふ、こんなことくらいではマークス様は怒りませんよ。」
「……だとよろしいのですけど。」
以前、カムイがジークベルトを構いすぎたあと、間違いなく母を独り占めしたことによるものでマークスの機嫌が悪くなっていることがあった。マークスがカムイを大事にしていることは、ジークベルトもよく分かる。今回ばかりは父に見られないといいと思いつつ、ジークベルトはカムイから少し離れた。
「ジークベルト。」
「はい、母上。」
「……あなたは、優しい子です。優しい上に、迷うこともあるでしょう。でも、迷ったら私たちにどんなことでもいいから、話してくださいね。今日あった出来事とか、食べて美味しかったものの話とかでも、なんでも、雑談でもいいですよ。」
「母上……。」
会話をするということは、心に溜めていたものを発散させたり、穏やかにさせてくれるものである。実際、ジークベルトがこうしてカムイと話すことにより、心に引っかかっていたものが少しずつ取れていったのは事実である。
ジークベルトは優しく瞳を細めると、カムイに向けて柔らかな笑顔を見せる。
この母がそばにいてくれることはジークベルトにとっては心の拠り所となる。もちろん、父であるマークスに、弟のカンナに対しても心の拠り所だと思うが、カムイの笑顔を見ると、心が落ち着く。
「やはり、母上には勝てないな。」
「え?そうですか?ジークはこの間私とチェスをして勝ったじゃないですか。」
「そういうことじゃなくて……とにかく、母上と父上は私の目標ですから。」
「そ、そう言われると…なんだか照れますね。マークス様にもあとで伝えておきます。」
ジークベルトは、あらゆる面でカムイやマークスに勝てることはないと思う。精神力や、戦術、それだけではないいろいろなものにおいて、勝てないと思う。
そのような存在がいてくれるだけで、ジークベルトは二人の背中を追い掛けてゆける。
「さ、母上、こんなに遅くまでいては父上が心配してしまいますよ。天幕まで送りますから、お戻り下さい。」
「す、すみません。ジークベルト…そうします。」
■
カムイを天幕まで送り届け、自らのいた場所まで戻ってきたジークベルトは、今だに雨の降る空を見上げながら一人佇んでいた。
雨が降り出した頃からしばらく経ったが、雨が治まる気配はまるでなく、雨の雫は地面を叩きつけて、土は多量の水分を含んでいた。
こうも地面がぬかるんでしまうと騎馬による行軍が遅れてしまう、とジークベルトはしゃがみ込み、土に触れた。
暗夜王国兵は、馬を持たない歩兵もいるが、ほとんどの兵が騎馬や竜騎士が多い。ある程度自由に動ける歩兵と、空を駆ける竜騎士だけで戦を進めるとなると、戦況は厳しいものになるだろう。
せめて、夜が明けるまでに雨が止んでくれればいい、と思っていたところで、不意に背後から枝を踏むような音が聞こえた。
その気配にジークベルトはくるりと振り向くと、そちらに向かって声を上げる。
「誰だ?」
「…ジークベルト……。」
「なんだ、カンナか。どうしたんだ?」
戦のことで誰かがやってきたのかと思って声を掛ければ、弟のカンナが眠そうに瞼をこすりながらやってきた。
ジークベルトとは違い、父譲りの金髪は湿気によりしっとりとしていた。その様子に、どこか頼りなさを覚えながらも、ジークベルトはカンナを手招く。
「……なんだか眠れなくて。ジークベルト、一緒に寝てくれないかなって…。」
「眠れないのか?仕方ないやつだな……私もそろそろ休もうと思っていた頃だったんだ。」
「ほんとに!やったー、ありがとう、ジークベルト!」
「全く、いくつになったんだ、カンナ。」
「えー、一緒に寝てほしいってお父さんとお母さんに言うと、一緒に寝てくれるんだけどなぁ。」
幾つになったのだ、と弟を茶化しつつも、素直に甘えてくるカンナは兄として、可愛らしいと思う。
まだカンナは身体も小さいし、子どもらしく甘えてくるところは、少しジークベルトにとって羨ましいところでもあった。羨ましいとは思えど、ジークベルトにはジークベルトで、役割がある。
眠い眠いと言いつつも、なかなか寝付けないのは、カンナも戦のことを気にしているのだろうと、ジークベルトは瞳を細める。
出来ることならカンナには戦に参加して欲しくない。無論、カンナに戦での血なまぐさい光景を見て欲しくないということもあるが、カムイの血を濃く受け継ぐカンナは、その身体を竜に変化させることができるからだ。
白夜と暗夜の王族はどちらも竜の血を受け継いでいるものの、竜に変化できるほど血が濃いのは、今までにカムイ一人だけだった。竜に変化するということは、敵軍に畏怖の感情を覚えさせ、敵の戦意を喪失させる。
人間というものは、自分より姿かたちの違う者が表れると、排除しようとしたり、忌み嫌うものだ。
竜に変化し、敵の戦意を喪失させる反面、ときおり、恐怖による戦意を助長させてしまうことにもなる。
恐怖だけで突き動かされる兵は、自分の身を顧みず攻撃しようとしてくる。先の戦いにて、竜に変化したカムイが敵の魔法攻撃を集中して受けたことを思い出しながら、ジークベルトはカンナの頭を撫でる。
竜の力を込めた宝石の加護のおかげで、その身体もまた守られていたので大事には至らなかったが、カンナはまだ幼く、戦場に立つには早すぎる。
「カンナ、危なくなったら私の隊の後ろに隠れているんだぞ。おまえが無理して戦う必要はないんだ。」
「……ジークベルト…。」
いつもは戦のことでカンナに何かを言うことはあまりないのだが、今日は雨でどこか気分が優れないからなのか、ジークベルトは珍しくカンナに言ってしまう。
そんなジークベルトに、カンナは何かを考えるように大きな瞳をゆっくりと閉じながら、天幕の中に入った。
■
翌朝、目を覚ましたジークベルトは、いまだにすうすうと穏やかに眠っているカンナの姿を見て微笑むと、カンナを起こさないようにそっと天幕の外に出た。
降り続けていた雨はいつの間にか止んでいて、地面はまだ濡れていたが、それも、これから日が照り始めれば随分良くなるだろうと確信していた。
騎馬による行軍が妨げられては、暗夜軍にとっては大きな損失となる。騎馬の多い暗夜軍に比べて、白夜軍は天馬武者や金鵄武者といった、空を駆ける兵が多い。空からの襲撃を受けては、暗夜軍は一溜まりもない。それに、白夜軍は天馬に歩兵を乗せて、こちらに襲撃してくるということもある。いつ、どこに襲撃が来ても対処できるように、機動力のある騎馬が欲しいのだ。
「今回もうまく戦況が進めばいいが……。」
「……ジークベルト。」
昨夜の土の状態と、今朝の土の状態を比べていると、ジークベルトは誰かに声をかけられた。その声のした方を振り向くと、そこには父親であり、暗夜王国の第一王子でもあるマークスがいた。
マークスにジークベルトは深々と礼をすると、それをマークスは制する。
「いい。今は将としておまえに会いに来たのではない。」
「はっ……父上。何かご用事でも?」
「ふ、用が無くては来てはいけないか。…ただ、おまえの顔を見に来ただけだ。」
「父上……。」
ジークベルトにとって偉大な存在であるマークスは、知能も経験も叶わない相手だ。てっきり、マークスが何か用事があるのだと思っていたのだが、マークスはただ単にジークベルトやカンナの様子を見に来ただけのようであった。
「カンナはまだ寝ているのか?」
「はい。夕べ、眠れないと言って私の天幕まで来ましたので、何か思うことでもあるのかと思って寝かせております。」
「…そうだな。もうしばらく寝かせておいてやれ。……ああ、支度は済ませておきなさい。」
「もちろんです、父上。」
やはりマークスは忙しい身であるから、ジークベルトと少し会話を交わすと、すぐに他の場所へと向かってしまった。
これからの戦いは、より一層激しくなってくることだろう。白夜王国の中心部に近付けば近付くほど、配置されている兵も強くなり、数も増えてくる。
さらに気を引き締めねば、とジークベルトが思っていると、天幕が開かれて、カンナが起きてきた。
「ジークベルト、おはよう。」
「ああ、おはよう。まだ寝ていても大丈夫なんだぞ?」
「平気。僕だって早起きしてみんなのためにお手伝いしなきゃ。」
「そうか、なら、天幕を畳むのを手伝ってくれ。」
「うん!」
まだ眠たげに瞼をこすっていたので、もうしばらく寝ていてもいいと言ったのだが、カンナはそれに首を振る。それならば、とジークベルトが言うと、カンナはにこりと笑うとジークベルトとともに天幕を片付け始めた。
行軍のために空が白み始めた頃に動き出していたカムイたちは、それぞれ纏まった隊列を組み、馬や竜に乗り準備をしていた。
ジークベルトもまた、その一人であったが、彼は鐙に足を掛けて愛馬に跨ると、遥かなる大地を見据えていた。
じっと前方を見つめていたところ、マークスの部下であるラズワルドと共に、カムイがジークベルトたちのいる隊のもとまでやってきたことに気がついた。
「ジークベルト、私たちもあなたの隊につきますから、一緒に参りましょう。」
「母上…?母上は後方ではありませんか?ご無理をなさらずとも…。」
「確かに前回の戦では狙われてしまうこととなりましたが…私たちが出なければならないんです。」
「ですが……。」
カムイと共に歩む軍は、無駄に兵を殺さない。捕虜などは捕まえてしまえば最後、聞きたいことだけ聞いたあとは殺してしまうなどと、非道の限りを尽くしてきたこともあったが、今の彼らは、違う。
気高き竜の姫と共にある彼らは、この戦争を終わらせるためには何が必要なのかなどを見据えている。
しかし、先の戦で負傷したことを気にしている様子のジークベルトに、そばで従えていたラズワルドが歩み寄った。
「…お話中、すみません。ジークベルト様。カムイ様を守るようにマークス様より命を受けて参りました。ご心配には至りませんよ。」
「あなたは、父上のところの…。」
「これでも剣の腕には自信がありましてね。お任せください。」
「父上の臣下がつくというのなら心強いですが……。」
にこりと微笑むラズワルドに、ジークベルトは頷くのだが、やや納得してはいない様子だった。
それに、カムイはむっと顔をしかめると、ジークベルトの眉間に指先で触れる。
「もう、ジークベルトったら。最近マークス様によく似てきましたね。ちょっと頑固なところとか、そっくりです。」
「は、母上…?」
「ジークベルト…心配してくれて、ありがとう。あなたのその気持ち、とても嬉しいです。」
「……。」
カムイの指先は、眉間に寄ったしわを伸ばすように触れていた。
突然、父に似ていると言われたジークベルトは、不謹慎ながら、嬉しいと思った。
穏やかに笑うその笑顔は、ジークベルトから見ても落ち着くものだ。
そんなカムイに、ジークベルトはお手上げだと言うように肩を下ろすと、にこりと母に微笑みかける。
「……全く、母上には叶いませんよ。もしも、危険になったら後方に下がってくださいね。」
「もちろんです。でも、ラズワルドさんもいてくれるので、安心ですよ。」
「ご期待に添えるように頑張りますよ。カムイ様、ジークベルト様。」
ジークベルトの隊にカムイとラズワルドが入ったあとは、そのまま彼らは前進し始めた。
まだ少し地面が濡れているということもあったので、進軍の度合いは若干遅かった。
「敵はまだ見えておりませんが、伏兵がいるとも限りません。母上、どうかお気を付けを。」
「そうですね…準備しておくに越したことはないですよね。戦闘準備をしておきましょう。」
白夜の軍は天馬などの他に、忍など、隠密に長けた者も多く存在する。そのような者たちに伏兵を仕込まれては一溜まりもない。
カムイは自らの剣を手にすると、その剣を高く上げる。
「皆さん……ここで死んではなりません。誰一人欠けず、白夜王国へと進軍するのです!」
カムイのその言葉に、一体にいた暗夜兵たちは大きな声を上げた。
美しいその心は、暗夜兵たちの拠り所でもある。
以前のカムイは戦術も何も知らない、無知な姫であったが、今の彼女は違う。
北の城塞に閉じ込められるようにして暮らしてきた姫が、戦場のど真ん中まで出てきて指示をすることに、反感を持っていた者もいるが、今では彼女は皆に慕われている。
「……危ない!」
歩みを進めている途中で、ジークベルトは斜め前方より矢が飛んできたことを察知して、それを盾で塞いだ。
「母上、お気を付けを。敵が近くに潜んでいるようです。」
「はい、ジークベルト。心して進みましょう。竜騎士の皆さんは少し下がって、騎馬や歩兵を前衛に出して戦いましょう。」
「了解!」
こちらに飛んできたのは、白夜兵によるものだろう。ジークベルトの言葉にカムイは皆に指示をすると、ラズワルドを始めとする兵たちはそれに頷き、それぞれが隊列を作った。
行軍もしばらくすると、敵兵が姿を現し始めて、辺りはあっという間に戦いに包まれた。
刃と刃がぶつかる金属音と、竜や馬のいななきが聞こえてきた。中心部に近づいて来たということもあるのだが、一体にあふれる白夜兵たちは精鋭ぞろいで、手強いものたちばかりだった。
ジークベルトは、襲いくる白夜の兵を槍でなぎ払いながら、カムイとラズワルドがいる方をちらりと見た。
彼が見る限り、カムイたちに危機は訪れていないようだった。将であるカムイが倒れることは、兵たちの戦意を喪失させる。何にしてもカムイを守らねば、と思いながら、ジークベルトは槍を奮い、敵兵を蹴散らしていく。
「私の前に立つ者は一人残らず消してやる。…死にたくない者は退いてもらおう!」
馬上からそう叫び、敵に向かって叫ぶと、ジークベルトの言葉に一斉に兵たちが飛びかかってきた。
しかし、それも想定のうちだ。彼の後方で控えていた竜騎士がやってくると、一斉に魔導書を扱い、空から雷を降らせた。
ごうごうと音を響かせながら放たれた雷に打たれた兵たちは、ばたりと地に倒れ、そのまま動かなくなってしまったものもあった。
しかし、果敢に挑んでくる者たちもいるもので、こちらが攻撃の手を緩められないほどであった。一瞬でも手を引いてしまえば、こちらが不利になってしまう可能性もあった。
それに、ジークベルトはなんとか状況を打破できないものかと、空を見上げた。
見上げた空は、雲の色が悪く、今にも雨が降り出しそうなほどに濁っていた。
「まずいな……一雨来るだろうか。…雨が降る前に一掃しなければ。」
雨が降り出しては戦況も変わってきてしまうもので、一度隊を引くためにも敵を一掃する必要があった。
ジークベルトはそう思って、敵兵に向かって手槍を投げて応戦していた。彼の投げた槍は白夜兵の脚にあたり、槍が深々と刺さったその兵は痛みに顔を歪めて、そのまま戦闘不能となった。
無駄に命を散らすことを良しとしないカムイの言葉通りに、戦闘不能、あるいは戦意喪失を狙っていた。
ジークベルトとて、人を殺したいわけではない。カムイの理想通りに、彼も極力兵を殺さず、王城までの歩みを進めていた。
しかし、兵の中には死に物狂いで向かってくる者もいるわけで、そのような輩がジークベルトを狙っていた。瞳に暗夜兵に対する憎悪と嫌悪を抱きながら、手にした刀は怒りに震わせて、その怒りの矛先を彼に向けていた。
「憎き暗夜の兵め……死んでしまえ!!!!」
「!!しまった…!!」
それほどの殺気を当てられては、気がつかないはずはないと言うのに、ジークベルトはその白夜の侍に気が付くことができなかった。
戦況ばかりを気にして、そばに敵が潜んでいたことに気がつかなかった。ジークベルトは慌てて槍を構えて応戦しようとするが、白夜の侍は暗夜の騎士に比べて、動きが速く、すぐに急所に刀を当ててこようとする。
慌てて構えた槍は間に合わず、ジークベルトは自分の身に刀が突き刺さることを覚悟して、強く瞳を閉じた。こんな失態を晒すなんて、と思いながら視界を閉ざしたが、いつまで経ってもジークベルトの身が刀に割かれることはなく、痛みはなかった。
いったい、どうして、とジークベルトがゆっくりと瞳を開けて、その瞳はすぐに見開かれることとなった。
「………母上!!!!」
ジークベルトの視界に映ったものは、彼を庇うようにして背中を向けているカムイの姿があった。
動揺を隠し切れないまま、恐る恐るカムイを見ると、やはりというかなんというか、カムイの身体は腹から胸にかけて、幅広い傷を負っていた。鎧を突き抜けるほどのそれに、カムイの息は絶え絶えで、彼女の身体から血が滴り落ちてきて、辺りを血に濡らした。
身体中を巡る血が沸騰するような感覚に、ジークベルトは思わず馬から崩れ落ち、地面に膝をついた。
頭のてっぺんから足の先までが熱くてたまらなく、その心は焼け焦がれ、押し寄せる感情の波に息が止まった。
呼吸の仕方を忘れてしまったのではないかと思うほど、息が苦しくてたまらない。
「母…上……?」
やっとのことで言葉を発せれば、その声はひどくかすれていて、きちんと言葉として成り立っていたのか不安になるほどだった。
ジークベルトは、震える足を動かしておそるおそる母のそばに寄り、その身体に触れてみれば、彼の手のひらには、多量の血が付着していた。
それに、ジークベルトは瞳を見開き、その赤い色に眩暈を引き起こした。
「………ジーク…ベルト……だめですよ、戦場で考え事…は……命とりに……なって……しま……。」
これは、誰の血だろうか?
ジークベルトは、自らの腕の中でぐったりと動かなくなってしまった母、カムイを見て、思わず大声をあげた。
「……うっ、うわぁああぁぁぁ!!!!!!」
優しくて、あたたかくて、強い母。
その温もりは、ジークベルトにとって、家族というものがとても安らぎを感じさせるものだと思っていたし、いつかは自らもそのような暖かい家庭を築きあげたいものだと思っていた。
威厳のある父のように、家族を導き、優しき母のように道を照らし、歩んで行きたい。そう思っていた。
手のひらに付着したカムイの血をジークベルトは強く握り締めると、呼吸も絶え絶えに白夜兵を睨み付けた。
「………ゆるさない。…許さない!!!母上をっっ、母上を傷つけたお前らだけはっっっ!!!!!」
そう、ジークベルトは吼えると、彼は自らの頭が痛むような感覚を覚えて、思わず頭を抱えた。こんなところで止まっている場合ではないのに、とジークベルトが荒い呼吸を繰り返していると、不意に、己の心臓の鼓動がどくどくと高鳴ってきて、目の奥がちかちかと点滅し始めたことに気がつく。
「うっ…ぐっ…ぐあぁぁあ!!!」
ひどく頭が痛くて、今までに経験した事のないような痛みだった。思わず、ジークベルトは唇を噛み締めた。
意識を持って行かれそうだ、と感じた瞬間、ジークベルトとカムイのいる一帯が強い光に包まれた。
その光に、ジークベルトは自分の身体に感じたことのない熱さを覚えたが、その熱もすぐに引いていった。
「カムイ様!!ジークベルト様!!!」
遠くで、一人飛び出してきたらしいカムイを呼ぶラズワルドの声が聞こえたような気がした。しかし、ジークベルトにとってはそんな声はどうでもよくて、今はとにかく白夜兵を一人でも多く殺したくてたまらなかった。
ジークベルトは自分の身に何が起きているのかも分からないまま、右腕を動かそうとした。だが、彼の右腕はいつものそれではなかった。
視界に入ったジークベルトの右腕はぐにゃりと変形をし始めて、それはみるみるうちに変化していった。
まるで、カムイやカンナと同じように、竜になったようだ、と思ったところで、ジークベルトの意識は途切れ始めた。
それを遠くから見つめていたラズワルドは、ジークベルトのそばにいるカムイが血を流し倒れていたことに気が付いて、腰に下げていた袋から発煙筒を取り出すと、それを空に向けて打ち上げた。
空に舞った青色の煙を確認しながら、ラズワルドは状況を判断し難いと思いつつ、ジークベルトの姿を見た。
「ジークベルト…様…なのか…?」
そう、ラズワルドが呟いた先には、ジークベルトが自らの身体を竜に変化させ、白夜兵を薙ぎ払っている姿が見えた。
竜となったジークベルトは、自我を失っているようで、彼のその竜の手は敵兵の喉を掻き、カムイと同じ目に遭わせるがごとく、腹を引き裂いた。
「………母、上を……傷付けた……ゆるさない……。」
うわ言のようにジークベルトは呟くと、敵を屠り続けた。その光景に、暗夜の兵までが恐れ戦き、誰もジークベルトに近付こうとはしなかった。
呆然として見つめていたラズワルドの元に、数騎の兵がやってくると、そのうちの一人が倒れているカムイに気が付いて、声を上げた。
「おねえちゃん!!!!」
先ほど、ラズワルドが放った発煙筒は、カムイの危機に対するものである。カムイの身に、或いは、ジークベルトの身に何かあれば、その発煙筒を打ち出して知らせよとマークスから命を受けていた。
なるべく、それは使いたくなかったものの、使わざるを得ない状況になってしまった。
血だらけで倒れているカムイの姿に、彼女の義妹であるエリーゼが馬を走らせて必死な形相をして近付くと、すぐさま傷の具合を察知して、杖を高く振りかざした。
「あっ、あわわわ!た、大変だ…!カムイ様、今助けてあげますからね!」
それに、ともに援軍としてやってきたレオンの臣下、オーディンも駆け寄ると、彼もまた手にしていた杖をカムイに向けた。
「ラズワルド!!戦況はどうなっているの!」
「ピ、ピエリ。カムイ様は負傷され、ジークベルト様は……あちらに…。」
「あっち?ジークベルト様のお姿なんて……。」
「あそこにいる、竜が……。」
「ジークベルト!!!!」
自分がついていながら、カムイを負傷させてしまったことにラズワルドは動揺しつつも、馬を走らせて援軍に来てくれたピエリにやっとのことで伝える。
ラズワルドの言葉を聞いて、ピエリの後ろに乗っていたらしい何者かが、飛び出していった。
「カンナ様!危ないのよ!!」
「ジークベルトが……ジークベルトが!!!」
ピエリは、自らの後ろに乗っていたカンナに声を掛けたが、カンナはその声に止まることはなく、竜に変身しているジークベルトの元へと近づいていった。
突如、戦場に現れた竜に、白夜兵は恐れて戦意を喪失し、逃げ出そうとするものもいたが、自我を失っているジークベルトは、そのような奴らも追い掛けて、爪で引き裂いた。
「…………。」
「ジークベルト!!ジークベルト!!!もうやめて!!!」
カンナが一人向かった先は、白夜兵ばかりであったが、彼らは戦意を喪失したものばかりで、ジークベルトを止めようと懸命に走るカンナを攻撃するものはいなかった。
小さな身体でジークベルトの前に立ちはだかると、カンナはその瞳に涙をいっぱいに溜めて、大好きな兄を見上げた。
「ジークベルト、やめて、やめて……お母さんは、生きてるよ。だから、お願い…やめて。優しいジークベルトに戻って……ジークベルトが泣く必要なんて、ないんだよ……お願い……お兄ちゃん!!!」
「………!」
敵兵を屠ったジークベルトの手足には、多量の血液が付着していた。それに、カンナは悲しさや色々な感情でぽろぽろと涙を零すと、懸命に兄の名を呼んだ。
それに呼応するかのように、ジークベルトの動きが止まった。
あとはもう、ここから先の事を覚えていない。激情に身を任せて、我を失ったあとは、ただ怒り狂った感情しかなかった。そのあと、弟の声が聞こえたような気がした。その声に、耳を傾けていると、ジークベルトの耳にどこか懐かしいような歌が聴こえてきた。その歌にひどく落ち着くのを感じていると、それっきり、ジークベルトは意識を完全に失ってしまった。
■
額に触れている物が冷たくて、心地いい。そう思いながら、ジークベルトは目を覚ました。
ぼんやりと瞬きを繰り返して、あたりを見つめていると、彼の視界に父の姿が目に映った。
それに、ジークベルトは戦のことを思い出し身体を動かそうとするが、全身がひどく痛んで、指の先ですら動かすのはつらかった。
「ぐっ……!」
「ジークベルト、無理に身体を動かそうとしなくて良い。」
「ち、父上……戦況は……!?母上は……!!」
「……落ち着け。とりあえず…おまえはずっと寝込んでいた。水分を取らねば死んでしまうぞ。…ほら、水だ。飲めるか?」
「は、はい……。」
どうやら、ジークベルトはどこかの部屋で寝かされていたようで、身体中は包帯に包まれて、部屋の中は薬草の匂いが立ち込めていた。
マークスに背中を支えられながら、ジークベルトは身体を起こすと、水の入ったグラスを渡されて、それを飲み干した。ジークベルトの身体は水分を欲していたようで、喉を潤していく感覚に心が満たされた。
「まだ飲むか?」
「い、いえ…平気です……それより、父上……母上やカンナは…。」
「……率直に言おう。カムイは、一命を取り留めたが、絶対安静だ。カンナは、ショックを受けて熱を出して…寝込んでいる。」
「……。」
マークスの言葉に、ジークベルトは呆然とすると、そんなジークベルトの頭を、マークスは優しく撫でた。
「……戦場では、一瞬の気の緩みが命取りとなる。皆、命懸けで戦っているのだ。おまえは、そんな戦場に立っているのだ……。」
「父上……。」
厳しい父の声が降りかかってきて、ジークベルトは無性に泣きたくなってきた。確かに、マークスの言うとおりであった。あの時、ジークベルトが一瞬だけ気を緩めた瞬間に、刀を向けられた。そしてそれに、カムイが立ちはだかった。
唇を噛み締めて、泣くことを必死に堪えていると、ジークベルトは不意にマークスの腕に引き寄せられて、強く抱きしめられていた。
抱きしめられた父の腕は、戦場に立つ暗夜の王子たるマークスとは違っていて、もしかしたら、カムイだけではなく、ジークベルトまでを失ってしまったかもしれないという恐怖に、震えていた。
「父上……?」
「……竜になったおまえを見た時、胸が潰れてしまうかと思った。カムイやカンナ、ジークベルトが……私の手を離れて、空に駆けて行ってしまうような、そんな思いに駆られた…。」
そう告げる父の声は僅かに震えていて、そのような声を初めて聞いたジークベルトは、その精悍な顔つきをくしゃりと歪めて、涙を零した。
カムイの優しき愛に包まれている一家だが、マークスの包み込むような深い愛もまた、家族を支えるひとつである。
ただただ、ジークベルトが無事でよかったと背中を震わせるマークスに、ジークベルトは泣き続けた。
「マークス様ー!カンナが目を覚ましましたよー!」
「カムイ!まだ起きてはならぬと言っただろう!」
「………あ…母上……。」
さすがに、いい年になって、父の腕の中で泣き続けるのは恥ずかしいと思ってジークベルトは離れたが、突然、部屋に輝かしい笑顔と共に現れたカムイに、彼の瞳は再び潤んだ。
元気そうに装っているが、カムイの身体にも包帯が巻かれていて、それを隠すかのようにゆったりとした服を着込んでいた。何より、無理に起きて来たらしいカムイに、マークスが声を荒げたのが、証拠である。
あの、輝かしい夕日のような、優しい笑顔は、ジークベルトにとって、大好きな笑顔である。
その笑顔が変わらずにそばにあることに、ジークベルトはどうしようもなく嬉しくて、唇を噛んで、泣き出した。
「ジークベルト……あらあら。いつまで経っても子どもですね。ほら、泣いちゃだめですよー…よしよし。」
「うっ、う、うぅぅぅ…!!」
「……あ、あんまり泣かれると…私まで………。」
「……泣くな、カムイ、ジークベルト……。」
母の温もりがすぐそばにあることがうれしくて、ジークベルトはカムイの腕の中で泣きじゃくった。それに釣られたのか、カムイもまた焔色の瞳に涙を浮かべると、それをあやすように、マークスはカムイの頭を撫でた。
自我を失い、竜になってしまったことは、後から聞いた話だったが、ジークベルトはまさか自分も竜になれるとは思ってもみなかった。カンナはカムイの血を濃く受け継いでいるから、竜になれることは知っていたが、ジークベルトはマークスによく似ていたと思っていたからだ。
カムイを傷付けることがどれだけ胸が苦しくなるものなのか、ジークベルトは深く思い知ったのだ。
「……カムイ、ジークベルト……二人とも、無事で良かった……もう、あんな思いはさせないでくれ………心臓が幾つあっても足りなくなってしまう。」
「マークス様……はい…。」
「父上、母上…申し訳ありません…。」
再び、ジークベルトは瞳が潤むのを感じながらも、父の言葉に頷いた。
窓から差し込んだ太陽は少し日が落ちてきて、優しい色を放っていた。
そのような、優しい暁色の光を浴びながら、ジークベルトは瞳を閉じたーー……。
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